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今季に新たな決意 J2松本山雅が新体制発表会

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サッカーJ2の松本山雅FCは25日、松本市のまつもと市民芸術館で今季の新体制発表会を開いた。反町康治監督や新加入9人を含む31選手、指導陣らが顔をそろえ、ファン・サポーター1500人余と対面。今季の意気込みを語り、1カ月余り後の開幕へ気勢を上げた。
今季のチームスローガンは「OneSoul(ワンソウル)~走力×創力×総力~」。3季目の指揮を執る反町監督は「開幕戦に万全の状態で臨み、一枚岩となって戦いたい」とあいさつ。選手会長となった喜山康平選手は「毎日の練習を大事にし、シーズンが終わったときにみなさんと笑い合えるよう頑張っていきたい」と決意を話した。
子ども2人と訪れた高山淳さん(42、同市神林)は、静岡県御殿場市で行った1次キャンプも見学に行き、「キャンプも今日も、雰囲気がとてもいい。開幕が楽しみ」。長女の綺乃さん(12)は船山貴之選手のファンといい「今季も活躍してほしい」と願っていた。
開幕戦は3月2日、東京ヴェルディと敵地で対戦。ホーム開幕戦は同16日、V・ファーレン長崎を迎える。

J2参戦3季目 始動

140118yampJ2参戦3季目となる松本山雅FCは1月15日、松本市サッカー場で今季の練習を開始した。就任3季目の反町康治監督の下、昨季を上回り、J1昇格プレーオフ圏内となる6位以上を目指す。
昨季から残る22選手と新加入9選手が約2時間半、体幹トレーニングやパス回しといった練習に取り組んだ。
反町監督は、選手らの表情に対し「昨年以上にいい緊張感と、やってやるぞという気持ちがみなぎっていた」と手応えを得た様子。「寄せられる期待に応えられるよう、しっかりやっていく」と決意を話した。
好天にも恵まれ、400人余のファンやサポーターが駆けつけて初練習を見守った。
恋人と訪れた鳥羽康平さん(21、安曇野市明科)は、特に名前が同じ喜山康平選手のファンといい、「今季も山雅らしい戦いを貫いて、J1昇格を果たしてほしい」と熱っぽく語った。
17日-2月21日、静岡県と鹿児島市で計3度のキャンプを経て、3月2日の開幕戦に臨む。開幕戦カードは21日に発表される。

地元出身田中隼磨選手入団 「3」を受け継ぐ

140109yampJ2松本山雅FCは6日、松本市出身で日本代表経験もあるJ1名古屋グランパスのDF田中隼磨(はゆま)選手の完全移籍加入を発表し、同市本庄のホテルブエナビスタで入団会見を開いた。背番号は、山雅在籍中の11年8月に急性心筋梗塞で急逝した松田直樹さんの「3」を受け継ぐ。即戦力としてはもちろん、集客力アップやチームへの豊富な経験の還元といった役割にも期待がかかる。
大月弘士社長、加藤善之ゼネラルマネジャー(GM)と会見に臨んだ田中選手は「生まれ育った松本のチームにプロ選手として加わることができ、幸せだし光栄。いろいろな人の思いを背負い、覚悟をもってやっていく」と決意を話した。
名古屋との契約満了を受け、山雅は昨年12月9日に名古屋市で初の交渉。代理人を含めた交渉を重ねたすえ、31日に田中選手が入団の意志を伝え、会見前に本契約を交わした。
大月社長は「(横浜でチームメートだった)松田さんとの縁や、彼と同じ強い気持ちで松本を全国区にしてほしいとの思いから、この背番号を付けてほしいと頼んだ」と説明。加藤GMは「まだ松本市出身選手はいない。チーム強化に加え、さらに地域を盛り上げる原動力になってほしい」と期待した。

【田中隼磨選手の一問一答】

-入団の最大の決め手は
打診はJ1を含めた数クラブからあった。毎日のように悩んだが、考えても考えても結局、山雅でプレーする姿しか思い浮かばなかった。
言葉で言い表すのは難しいが、山雅というチームに魅力ややりがいを感じた。お金やJ1の舞台といった以上に大切なものが、山雅にはあると思う。
-J2でのプレーは自身初となる
非常にタフで厳しいリーグと聞いているが、それだけいろいろなチームに昇格のチャンスがあり、わくわくしている。
チームの目標が僕の目標でもある。これまでとまったく環境も変わるが、プレッシャーより楽しみな気持ちでいっぱい。山雅とともに、今年のJ2を盛り上げられればいい。
-背番号について
3を付けてほしいと言われ、すぐには返事ができなかった。
松田さんのお母さんとお姉さん、(松田さんの親友の)安永聡太郎さんや佐藤由紀彦選手(長崎)にも相談したところ、「隼磨が付けるなら直樹も喜ぶ。直樹と一緒に戦ってくれ」と、皆さんに後押しをしてもらえた。悩んだが、覚悟をもって付けようと決めた。
-山雅への思いは
生まれ育った松本のチームなので、ずっと前から気にしていた。
今の山雅があるのは、選手、サポーター、スタッフなど、今まで携わってくれたあらゆる人たちのおかげ。多くの人たちの思いを背負い、プレーしたい。
おそらく周囲が思っている以上に、僕は松本に思い入れがあると思う。そういった気持ちもプレーに込めていけたらいい。
-豊富な経験をどうチームに伝え、引っぱっていくか
J1でプレーした選手は少なく、日本代表やリーグ優勝経験者もいない。少しずつでも、自分がひたむきにやる姿を見せていけたらいい。
また、そうすることで下部組織の選手たちもトップチームを目指したいと思うような、夢のあるクラブづくりにも貢献したい。

【たなか・はゆま】 1982(昭和57)年生まれ。女鳥羽中時代までFC松本ヴェガ(現在は消滅)でプレーし、卒業後、横浜フリューゲルスユースへ。2001年に横浜F・マリノスに入団し、以後東京ヴェルディ、名古屋でJ1計355試合に出場。04年に横浜(当時は2ステージ制)、10年に名古屋でリーグ制覇を経験。06年には代表入りし、国際Aマッチ1試合に出場した。174センチ、64キロ。
(長岩将弘)

選手たちの「今」 2010年シーズンに在籍した4人をたずねる

 140103yamp毎年、何人もの選手が山雅を去る。クラブチームの常とはいえ、一度は同じユニホームに身を包んだ仲間たち。彼らはその後、どんな日々を送っているのだろう。
JFLに昇格し、初めて全国リーグで戦った2010年シーズンに在籍した4人の「今」をたずねた。現役選手としてボールを追う者、まったく別の道を選んだ者-。状況は違っても、それぞれの場所でひたむきに走り続ける姿は共通していた。(長岩将弘、倉科美春)
(文中敬称略、プロフィルは(1)生年月日(2)出身県(3)在籍期間(4)山雅でのポジション)

大西康平さん-「得たものを教壇で伝えたい」
大西康平は大阪府大阪狭山市に住み、高校教員免許の取得を目指して2つの大学の科目等履修生として勉強漬けの日々を送る。
10年12月、契約満了で山雅を退団。翌年1月に故郷の岡山県倉敷市に戻った。「現役を続けたい気持ちはあったが高いレベルは望めないのも分かっていた」。こんな時、「コーチをやらないか」と声を掛けてくれたのが、高校に勤務していた中学時代の恩師だった。
当時は、妻が第1子を妊娠中。「外部コーチだけではやっていけない。いっそ『教える』ことをしっかり仕事にしよう」と教員になることを決意した。11、12年度は大学の通信課程で学び、地歴科免許を取得。13年4月、妻の故郷である大阪狭山市に転居し、通信ではできない体育科免許の取得に挑んでいる。
「今もはっきり覚えている」という意識の転換が、山雅時代にあったという。北信越リーグ1部だった08年シーズン中、早くもリーグ優勝の可能性が消滅した7月のことだ。
JFL昇格を争う全国地域リーグ決勝大会への出場が厳しくなり、「やはりここでは駄目かなと移籍も考えた。けれどすぐに、自分は考え違いをしているのではないかと思えた」という。
JFLの企業チームから加入した大西にとり、練習場など環境面は貧弱だった。だが、「チームのために自分は何ができるのか、何をするべきなのか、考えるようになった」。
教壇に立ったら-と聞くと、「自分の経験を話し、やりたいことを持つ大切さとか、生き方の選択肢は多いことを伝えたい。いろいろと悩みも多いだろう生徒たちを支え、手助けができればうれしいですね」。答える口調と表情は、すっかり「先生」のそれだった。
【おおにし・こうへい】(1)1982年10月30日(2)岡山県(3)2008-10年(4)MF

斎藤智閣さん-「社会人であり選手である誇り」
東御市を拠点に活動する北信越リーグ1部のアルティスタ東御で、斎藤智閣はMFとして活躍中だ。
第二の人生の始まりは10年末。この年は13人が退団。北信越リーグからJFLへ、チームの躍進を支えた斎藤もこの中の1人だった。
他のJFLチームから誘いがあったが、「山雅でやり切り、個人で上(Jリーガー)を目指すのは考えられなかった」。引退も視野に、予備校の講師や松本市の新聞社の採用試験を受けたが全て不採用。「就職活動があんなに大変だとは。同時に神様がサッカーをやれと言っていると感じた」と振り返る。
こんな時に東御から誘いを受けた。現在、昼間は仕事、夜に練習、土・日曜は練習や試合という生活。山雅でも中学校の講師やセイコーエプソン勤務をしたが、「今の生活はハード」。
勤務先はメーンスポンサーの自動車部品製造会社。国内2工場のうち、1つの工場の品質管理責任者を務め、製品の検査、不良品が出た際のクレーム対応や原因追及をする。忙しく、午後7時半の練習に間に合わないこともある。「それでも続けている。プロよりサッカーが好きなんじゃないかと思います」と笑う。
夢は、「東御を地元に愛されるチームにすること」だ。サポーターはまだ少ないが、彼らの後ろに大きな可能性を感じるといい、「『試合見に来てよ』って同僚を誘ってます。山雅もそうやって応援してくれる人が増えたから」。山雅が大きなクラブになる始まりに関わったからこそ、チームの明るい未来を信じる。
「サッカーをやめるのも、サッカーだけの人生も考えられない」。社会人であること、サッカーを続けていること、全てが誇りだ。
【さいとう・ともはる】(1)1983年4月3日(2)神奈川県(3)2006-10年(4)MF

石川扶さん-「心の火を封じ、米軍基地で働く」
「ネーティブの英語は速いし略語も多く、いまだに慣れません。時々迷子になりますしね。仕事だし、何事もやるしかないんですけど」。石川扶は昨年7月から神奈川県横須賀市の米軍基地で働く。艦船修理に関する書類の管理が主な仕事だ。
12年11月、契約満了で退団。現役に未練があり、他のJクラブへの売り込みも試みたが、「結局いつかはやめなければならない。この先の人生や年齢なども考えると引き際というか、いいタイミングなのかなと思った」と引退を決断、翌年2月に発表した。
そこから人生初という就職活動が始まった。3月に故郷の横須賀に移り、職探し。友人の勧めもあり、基地での仕事も視野に入れたのは4月下旬。求人中の職種に片っ端から応募し、唯一受かったのが現在の仕事だ。
だが、専門知識や特別な語学スキルがあったわけではない。「採用を知らせる電話が英語でかかってきて焦りました。困ってたら日本語に切り替えてくれましたけど…。何で受かったんでしょうね」
今は全くサッカーに関わっておらず、意識的に遠ざけているくらいという。理由を聞くと、「遊びや趣味でできない。自分の中の火が付いてしまうのが怖い」と、真剣な表情を見せた。
サッカーは中毒みたいなもの-と、石川は言う。「特に山雅で、あれだけ多くの人の声援を受けながら、感情を思い切り出してプレーしたら、もうやめられない。すごいところでやっていたなと、現役時代よりも感じます」
半年間の試用期間が終わり、新年からは正社員。「落ち着いたら、いつか純粋に楽しみのために、サッカーができるようになるのかな」と、石川は笑った。
【いしかわ・たすく】(1)1984年7月2日(2)神奈川県(3)2009-12年(4)GK

今井昌太さん-「はい上がる、Jで活躍するのが目標」
13年シーズンに加入したJFL、MIOびわこ滋賀で、今井昌太が与えられた背番号は年齢と同じ29。「偶然ですよ」と笑うが、20代最後の決意と覚悟を示すように、29番はピッチを駆けた。
公式戦36試合(リーグ34、カップ2)中、不出場は警告累積による1試合だけ。うち31試合はフル出場で、2得点した。だが、チームは18位中16位で終戦。主力として責任を痛感する一方、「今までにない環境でやらせてもらい、濃い1年だった」と振り返る。
12年11月、山雅、期限付きで移籍していたブラウブリッツ秋田(当時JFL)とも契約満了。年が明けても所属先は決まらず、引退も考えたという。
大学で同期だったMIOのDF宇野勇気を通じ、入団の話が持ち上がったのは2月。「悩んだが、やめるのはいつでもできる。少しでも未練があるのなら、しがみついて現役を続けようと思った」
入団したものの、コンディション不良や、慣れない環境との戦いでもあった。昼間はサッカースクールのスタッフとして働き、練習は夜7時から。もろもろに慣れ、ようやく本調子と言えるようになったのは、夏以降だったという。
滋賀について、今井は「松本に似ているかもしれない。地域やサポーターの熱を感じる。火が付けばあっという間に燃え広がると思う。だからこそ僕ら選手がもっといい試合をし、魅力あるクラブづくりに貢献していかなくては」と力を込める。
「はい上がる、という表現になるんでしょうけど、Jの舞台で活躍するのが目標。自分はまだ何もしていない。現役生活を振り返った時の悔いをできる限り少なくするため、やれる限りやります」。今井はこう言い切った。
【いまい・しょうた】(1)1984年7月16日(2)上松町(3)2007-12年(12年8-11月は秋田へ期限付き移籍)(4)MF

心理描写豊かな窓霜の世界(松本市・美ケ原高原)

140103sikip昇ったばかりの日を浴びて黄金色の豪華な輝きを見せる窓霜。変幻する自然光が演出するドラマチックで衝撃的な光景が広がる(ニコンD3、ニッコール105ミリマイクロレンズ、美ケ原高原王ケ頭ホテル)

冷え込んだ松本市の美ケ原高原王ケ頭。早朝、ホテルの窓ガラスに「窓霜(まどしも)」と呼ばれる厳寒の季節の贈り物が届く。
一期一会の繊細な造形美は彫刻や絵画の世界を連想させる。曲線と直線が織りなし立体感もある光景は、19世紀末から20世紀初めに欧米各地で流行したアールヌーボーやアールデコの装飾美術の世界が重なり迫ってくる。
窓霜を鮮やかに際立たせ、命を吹き込むのは自然光だ。幾重にも重なった山脈を連想させる窓霜に目線が留まった。薄明から日の出の時刻まで変幻する光を浴びた窓霜の心理描写のドラマを追った。
薄墨色の薄明の空を背景にした山脈の光景を見て、心に衝撃が走った。黒く見える山並みが、東日本大震災の後、取材で訪れた岩手県陸前高田市のがれきの山並みの異様な風景と重なったからだ。
夜明けにいっときだけ見せる群青色の時刻。窓霜は、安堵(あんど)感と明るく希望が湧いてくる“青い山脈”に変わった。
神秘的な日の出が始まる。黄金色に染まり輝く豪華でまぶしい山脈が2020年の東京五輪の金メダルを連想させる。だが、ゴールド一色に染まる中にもわずかに黒ずんで見える部分の窓霜が、五輪に浮かれても大震災の被災地を忘れるなと表現しているように映った。
(丸山祥司)

選手寮シェフの沼波さんに聞く献立のポイント

Jリーグの中でもハードな練習で定評がある松本山雅。これをこなす選手にとって、「食」は生活の重要な部分を占める。練習に励む選手を、食事を通してサポートするのが、松本市内の選手寮でシェフを務める沼波秀泰さん(51)だ。沼波さんが献立で心掛けていることと合わせ、独自に考案してもらったスポーツをする子どもたちにお薦めのメニューを紹介する。
沼波さんは週6日、トップチームの若手選手と、U-18(18歳以下)の選手計8人(2013年12月24日現在)の朝食と夕食を作る。料理人歴30年。軽井沢のホテルで料理長も務めたベテランだが、「プロ選手の食事は全く違う。栄養学を含め日々勉強です」という。
見た目の美しさや素材の良さを重視するのがホテルなら、プロ選手は、「ご飯をたっぷり食べるためのおかず」。選手は1食で米1合以上を食べるため、ご飯が進み、栄養をバランスよく補うのがおかずの役割。毎食4、5品は用意する。
特に大事なのは、筋肉を作るのに必要な栄養素、タンパク質だ。タンパク質を含む、肉、魚、豆、卵、牛乳を、必ず1食に2品は入れ献立を考える。特に牛乳は選手自身も積極的に摂取。育ち盛りのU-18の選手は、1日400ミリリットルを飲むという。海藻類などに含まれるミネラルや、果物のビタミンCも欠かせない。
反対に、取り過ぎに注意するのは体脂肪を増やす油。食材を焼くのではなく、煮たり蒸したり。焼く場合もフッ素樹脂加工のフライパンを使い、キッチンペーパーで余分な油を拭き取るなど一手間加える。
寮で暮らすU-18の山寺優作君(16、松本美須々ケ丘高校1年)は「いつもバランスが取れていて、練習終わりのおなかがすいた体には最高の食事。体づくりのために、毎日ご飯を大盛り2杯以上は食べるように心掛けている」と言う。
沼波さんは「みんながおいしく食べられるよう工夫している。プロが育つのが楽しみ」と笑顔を浮かべる。

<スポーツをする子どもたちにお薦めのメニュー>
スポーツをする子どもたちに「豚ヒレ納豆オクラ焼き」を紹介します。納豆や豆腐はお薦め食材。大豆はアミノ酸のバランスが完璧なので、選手の料理にも毎食使います。
ビタミンB1を含む豚肉と、栄養価が高く消化を助けるとろろとオクラのねばねばコンビも加えました。
作り方のこつは、焼いている肉の上に、納豆オクラを載せること。フライパンに肉を載せる時にこぼれず、失敗が少ないです。
お好みでポン酢などで食べてください。大人向けにお酒のおつまみにもなります。薄力粉が入っているので、納豆オクラだけで焼いても食べられます。
付け合わせの野菜には、大根、エノキタケ、カブなどが良いです。果物はタンパク質分解酵素を含み肉類の消化を助けるキウイフルーツがお薦め。ヒジキやワカメ、切り干し大根なども食べてミネラルを摂取してください。

「豚ヒレ納豆オクラ焼き」
【材料4人分】
豚ヒレ肉…600㌘
塩、こしょう、小麦粉、しょうゆ、かつお節…少々
〈納豆オクラ〉
納豆…200㌘
オクラ(ネギや大葉でも可)…200㌘
長芋…80㌘
卵…1個
薄力粉…30㌘
【作り方】
1豚肉には塩、こしょうをして小麦粉をまぶす。長芋をすり下ろし、オクラを刻む
2ボウルに納豆オクラの材料を入れ、混ぜ合わせる
3フライパンに油を入れ、豚肉を焼く
4片面を焼いている最中に、スプーンで納豆オクラをすくって肉の上に載せる
5裏返して、納豆オクラの面を焼く
6フライパンにしょうゆを垂らし、肉にからめる
7皿に盛り付け、かつお節を掛ける
(倉科美春)