選手たちの「今」 2010年シーズンに在籍した4人をたずねる

 140103yamp毎年、何人もの選手が山雅を去る。クラブチームの常とはいえ、一度は同じユニホームに身を包んだ仲間たち。彼らはその後、どんな日々を送っているのだろう。
JFLに昇格し、初めて全国リーグで戦った2010年シーズンに在籍した4人の「今」をたずねた。現役選手としてボールを追う者、まったく別の道を選んだ者-。状況は違っても、それぞれの場所でひたむきに走り続ける姿は共通していた。(長岩将弘、倉科美春)
(文中敬称略、プロフィルは(1)生年月日(2)出身県(3)在籍期間(4)山雅でのポジション)

大西康平さん-「得たものを教壇で伝えたい」
大西康平は大阪府大阪狭山市に住み、高校教員免許の取得を目指して2つの大学の科目等履修生として勉強漬けの日々を送る。
10年12月、契約満了で山雅を退団。翌年1月に故郷の岡山県倉敷市に戻った。「現役を続けたい気持ちはあったが高いレベルは望めないのも分かっていた」。こんな時、「コーチをやらないか」と声を掛けてくれたのが、高校に勤務していた中学時代の恩師だった。
当時は、妻が第1子を妊娠中。「外部コーチだけではやっていけない。いっそ『教える』ことをしっかり仕事にしよう」と教員になることを決意した。11、12年度は大学の通信課程で学び、地歴科免許を取得。13年4月、妻の故郷である大阪狭山市に転居し、通信ではできない体育科免許の取得に挑んでいる。
「今もはっきり覚えている」という意識の転換が、山雅時代にあったという。北信越リーグ1部だった08年シーズン中、早くもリーグ優勝の可能性が消滅した7月のことだ。
JFL昇格を争う全国地域リーグ決勝大会への出場が厳しくなり、「やはりここでは駄目かなと移籍も考えた。けれどすぐに、自分は考え違いをしているのではないかと思えた」という。
JFLの企業チームから加入した大西にとり、練習場など環境面は貧弱だった。だが、「チームのために自分は何ができるのか、何をするべきなのか、考えるようになった」。
教壇に立ったら-と聞くと、「自分の経験を話し、やりたいことを持つ大切さとか、生き方の選択肢は多いことを伝えたい。いろいろと悩みも多いだろう生徒たちを支え、手助けができればうれしいですね」。答える口調と表情は、すっかり「先生」のそれだった。
【おおにし・こうへい】(1)1982年10月30日(2)岡山県(3)2008-10年(4)MF

斎藤智閣さん-「社会人であり選手である誇り」
東御市を拠点に活動する北信越リーグ1部のアルティスタ東御で、斎藤智閣はMFとして活躍中だ。
第二の人生の始まりは10年末。この年は13人が退団。北信越リーグからJFLへ、チームの躍進を支えた斎藤もこの中の1人だった。
他のJFLチームから誘いがあったが、「山雅でやり切り、個人で上(Jリーガー)を目指すのは考えられなかった」。引退も視野に、予備校の講師や松本市の新聞社の採用試験を受けたが全て不採用。「就職活動があんなに大変だとは。同時に神様がサッカーをやれと言っていると感じた」と振り返る。
こんな時に東御から誘いを受けた。現在、昼間は仕事、夜に練習、土・日曜は練習や試合という生活。山雅でも中学校の講師やセイコーエプソン勤務をしたが、「今の生活はハード」。
勤務先はメーンスポンサーの自動車部品製造会社。国内2工場のうち、1つの工場の品質管理責任者を務め、製品の検査、不良品が出た際のクレーム対応や原因追及をする。忙しく、午後7時半の練習に間に合わないこともある。「それでも続けている。プロよりサッカーが好きなんじゃないかと思います」と笑う。
夢は、「東御を地元に愛されるチームにすること」だ。サポーターはまだ少ないが、彼らの後ろに大きな可能性を感じるといい、「『試合見に来てよ』って同僚を誘ってます。山雅もそうやって応援してくれる人が増えたから」。山雅が大きなクラブになる始まりに関わったからこそ、チームの明るい未来を信じる。
「サッカーをやめるのも、サッカーだけの人生も考えられない」。社会人であること、サッカーを続けていること、全てが誇りだ。
【さいとう・ともはる】(1)1983年4月3日(2)神奈川県(3)2006-10年(4)MF

石川扶さん-「心の火を封じ、米軍基地で働く」
「ネーティブの英語は速いし略語も多く、いまだに慣れません。時々迷子になりますしね。仕事だし、何事もやるしかないんですけど」。石川扶は昨年7月から神奈川県横須賀市の米軍基地で働く。艦船修理に関する書類の管理が主な仕事だ。
12年11月、契約満了で退団。現役に未練があり、他のJクラブへの売り込みも試みたが、「結局いつかはやめなければならない。この先の人生や年齢なども考えると引き際というか、いいタイミングなのかなと思った」と引退を決断、翌年2月に発表した。
そこから人生初という就職活動が始まった。3月に故郷の横須賀に移り、職探し。友人の勧めもあり、基地での仕事も視野に入れたのは4月下旬。求人中の職種に片っ端から応募し、唯一受かったのが現在の仕事だ。
だが、専門知識や特別な語学スキルがあったわけではない。「採用を知らせる電話が英語でかかってきて焦りました。困ってたら日本語に切り替えてくれましたけど…。何で受かったんでしょうね」
今は全くサッカーに関わっておらず、意識的に遠ざけているくらいという。理由を聞くと、「遊びや趣味でできない。自分の中の火が付いてしまうのが怖い」と、真剣な表情を見せた。
サッカーは中毒みたいなもの-と、石川は言う。「特に山雅で、あれだけ多くの人の声援を受けながら、感情を思い切り出してプレーしたら、もうやめられない。すごいところでやっていたなと、現役時代よりも感じます」
半年間の試用期間が終わり、新年からは正社員。「落ち着いたら、いつか純粋に楽しみのために、サッカーができるようになるのかな」と、石川は笑った。
【いしかわ・たすく】(1)1984年7月2日(2)神奈川県(3)2009-12年(4)GK

今井昌太さん-「はい上がる、Jで活躍するのが目標」
13年シーズンに加入したJFL、MIOびわこ滋賀で、今井昌太が与えられた背番号は年齢と同じ29。「偶然ですよ」と笑うが、20代最後の決意と覚悟を示すように、29番はピッチを駆けた。
公式戦36試合(リーグ34、カップ2)中、不出場は警告累積による1試合だけ。うち31試合はフル出場で、2得点した。だが、チームは18位中16位で終戦。主力として責任を痛感する一方、「今までにない環境でやらせてもらい、濃い1年だった」と振り返る。
12年11月、山雅、期限付きで移籍していたブラウブリッツ秋田(当時JFL)とも契約満了。年が明けても所属先は決まらず、引退も考えたという。
大学で同期だったMIOのDF宇野勇気を通じ、入団の話が持ち上がったのは2月。「悩んだが、やめるのはいつでもできる。少しでも未練があるのなら、しがみついて現役を続けようと思った」
入団したものの、コンディション不良や、慣れない環境との戦いでもあった。昼間はサッカースクールのスタッフとして働き、練習は夜7時から。もろもろに慣れ、ようやく本調子と言えるようになったのは、夏以降だったという。
滋賀について、今井は「松本に似ているかもしれない。地域やサポーターの熱を感じる。火が付けばあっという間に燃え広がると思う。だからこそ僕ら選手がもっといい試合をし、魅力あるクラブづくりに貢献していかなくては」と力を込める。
「はい上がる、という表現になるんでしょうけど、Jの舞台で活躍するのが目標。自分はまだ何もしていない。現役生活を振り返った時の悔いをできる限り少なくするため、やれる限りやります」。今井はこう言い切った。
【いまい・しょうた】(1)1984年7月16日(2)上松町(3)2007-12年(12年8-11月は秋田へ期限付き移籍)(4)MF